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爷爷是世界的爷爷啊~><
KIME 发表于 2008-01-31 15:19:03
一一。。。恩,懒了好长好长好长一段时间……所以过来扫扫灰……
是一休给的喜爷爷的资料~估计是wiki搜到的~所以翻译一下大家来分享~~
前面一段爷爷资料是已经有翻译的,所以整理了一小下~
后面的X骚扰事件是自翻的所以如果有错还请原谅~m(_ _)m
话说pv看得我鼻血横流口水那叫一把一把的擦啊!!!
lips果然很强大啊!!!!!!!妖化版齐天大圣和白骨精的天堂啊!!!><
过几日要失踪~勿念~
喜爷爷档案如下~(校花+校花夫人和喜爷爷啊~)

ジャニー喜多川 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジャニー喜多川(ジャニーきたがわ、Johnny H. Kitagawa、本名: 喜多川 擴(きたがわ ひろむ)、1931年10月23日 - )は、日本の実業家 芸能プロモーターで、ジャニーズ事務所、ジャニーズ出版、ヤングコミュニケーションの社長である。
ロサンゼルス生まれで日系二世。日本に帰化後は一時、和歌山県和歌山市に在住していた。
来歴 人物
1931年10月23日、真宗大谷派東本願寺ロサンゼルス別院の僧侶 喜多川諦道(1946年から1949年まで、プロ野球チーム「金星スターズ(元 金星ゴールドスター)」のマネージャーだった人物) の長男として、アメリカ ロサンゼルスに生まれる。母親は幼少時にアメリカで死別している。ちなみに子供の頃のあだ名は「ヒー坊」だった。
太平洋戦争開戦後、日系人の強制収容により父、姉 メリー喜多川(当時の本名: 喜多川泰子)、弟と共に、カリフォルニア州内に抑留されるが、1942年6月18日の第一次日米交換船で帰国した。
終戦まで日本で過ごし、両親の出身地 和歌山県和歌山市に在住していた。しかし、1945年7月9日の和歌山大空襲で焼け出される。戦後は姉とともに再渡米、ロサンゼルスの高校を卒業。
そして1952年、陸軍犯罪捜査局(CID)の情報員として、ロサンゼルス市立大学を卒業した姉と共に日本に再帰国する。米軍関係の仕事の一環として、当時勃発していた朝鮮戦争による戦災孤児に英語を教える為に、日本で僅か10ヶ月で朝鮮語をマスターし、すぐ韓国の板門店に出向き、1年2ヶ月間に渡って子供達に英語を教えた。日本への帰国後は、アメリカ大使館で軍事顧問団に勤務。
その後、上智大学国際部に進学し、卒業。大学在学中の1955年にバンドを結成し、芸能界へ参入。
-----------------------------------------翻译整理-----------------------------------------
Johnny喜多川(本名:喜多川 擴,1931年10月23日)是日本实业家,艺能推广家,Johnny事务所、Johnny出版社、Young Communication的社长。
在洛杉矶出生的第二代日裔。回日本后曾经在和歌山县的和歌山市(hyde故乡)住过一段时间。
1931年10月23日,作为真宗大谷派东本愿寺洛杉矶别院的僧侣 喜多川谛道(1946年到1949年曾担任过专业棒球队「金星Stars(原 金星Gold Star)」的经理)的长子,在美国洛杉矶出生。小时候在美期间母亲去世。小時候曾经有过爱称:「ヒー坊」。
太平洋战争爆发后,作为日裔被强制收容的喜多川一家(爹、姐姐Mary喜多川「本名:喜多川泰子,景子阿姨他娘」还有弟弟),在加州境内滞留,与1942年6月18日乘坐第一次日美交换船回到日本。
战争结束前一直在日本度过,住在父母的出身地和歌山縣和歌山市(爷爷原来也是关西人)。但是,因为1945年7月9日的和歌山大空袭房子被烧毁。战后和姐姐一起再度赴美,在洛杉矶高中毕业。
然后,1952年,作为陆军犯罪调查局(CID)的情报员,和在日本洛杉矶市立大学毕业的姐姐一起再度回到日本。作为美军相关工作的一环,朝鲜战争爆发后为了教授战灾遗孤英语,他在日本仅用了10个月的时间掌握了朝鲜语后立刻至韩国的板门店赴任,在韩国教孤儿学英语历时1年两个月。归国后,在美驻日大使馆担任军事顾问。(这时候,爷爷年仅21岁。)
之后,在上智大学国际部(Merry社长也是这里毕业的)继续进学,毕业。大学期间于1955年组了乐队,加入了艺能界。
之后的事情基本上人尽皆知了,我就不罗嗦了。
爷爷果然是世界的爷爷。从他的经历看,他完完全全经历了那场战争。
并且和普通日本民众不同,是亲身经历,并且还深入过军队。
也许爷爷现在对大陆和台湾的态度和这个有关。
不仅经历了战争,爷爷还是海龟,这经历丰富而复杂的阿。
既然在洛杉矶混了那么久,有些特别的嗜好大概也可以解释了吧。
还有对拉斯韦加斯和夏威夷的钟爱。
爷爷在米国日系社会应该也是人脉很广。
可以从他早年经历分析一下这人性格的形成hoho
后面附上J家成立的典故和爷爷著名的骚扰案始末。
ジャニーズ事務所の設立
1960年代初頭、ジャニー喜多川は自分の住んでいた東京の在日米軍宿舎「ワシントンハイツ」(現在は代々木公園)にて、近所の少年たち約30名を集めた少年野球チームのコーチをしていた。そのチーム名は、喜多川擴のアメリカ国籍での名前「ジャニー」からとって「ジャニーズ少年野球団」と名付けられた。このチームのメンバーには、浜田光夫、小畑やすし、設楽幸嗣らも居り、応援団には松島トモ子までもが居た。しかもプロ球団や力道山などに支援されていて、練習場も後に池袋の立教大学のグラウンドへと移行した。ある日、このチームのメンバーの中から代々木中学校に通う4名を選び、映画館に連れて行く。そして、そこで観た『ウェストサイドストーリー』に一同感動し、エンターテインメント事業を興そうと決意する。そしてこの4名の少年で、最初のグループであるジャニーズを1962年4月に結成。最初は池袋西口にある芸能プロダクション「新芸能学院(現:名和プロダクション)」に籍を置いていたが、1962年6月にジャニーズ事務所を創業。1975年1月になって正式に株式会社として法人登記される。
姉のメリー喜多川は、1950年代から四谷三丁目の円通寺坂入口右手の角にあった「スポット」という名のカウンターバーを経営しており、バーの客だった東京新聞記者(後に作家)の藤島泰輔と結婚した。ジャニーがジャニーズ事務所を興すとバーを閉店し、事務所の経理を担当するようになった。
事務所の黎明期には、フォーリーブス たのきんトリオ シブがき隊 少年隊 光GENJIなどで正統派男性アイドルの礎を築き、また正統派だけでは通用しなくなると、SMAP以降の男性アイドルの活躍の場をバラエティの分野にも拡げた。
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Johnnys事务所的设立
60年代初,Johnny喜多川住在东京在日美军宿舍(Washington Heights 现在的代々木公園),召集了附近的约30名少年组成了一个野球队爷爷做教练。这野球队的名字是由爷爷美籍的名字Johnny而来的“Johnnys少年野球团”。这野球队的队员中浜田光夫、小畑やすし、設楽幸嗣他们也在,应援团中还有松島トモ子。而且还受职业球队和力道山等的支援,练习场也在日后转移到了池袋立教大学的运动场。有一天,爷爷在队中挑了在代々木中学读书的4个带去了电影院,在那儿看了《West Side story》一同感动后决意开始娱乐事业。这4名少年作为最初的Johnnys团体在1962年4月结成。最初属于池袋西口的某艺能经纪公司(新艺能学院,现名:和production),1962年6月Johnnys事务所创业,1975年1月正式作为株式会社成为法人。
姐姐Mary喜多川从50年代开始,经营着在四谷三丁目的円通寺坡道入口右边角上名为「スポット」的Counter bar,和曾经是酒吧的客人的东京新闻记者(后来成为作家)的藤島泰輔结婚了。在爷爷开办Johnnys事务所后关了酒吧,成为了事务所的经理。
事务所的初期,以フォーリーブス、たのきんトリオ、シブがき隊、少年隊、光GENJI等正统派男性Idiol为基础,之后仅只有正统派通用不了之后,也开始出现SMAP之后的涉野广泛的男性Idiol。
セクハラについて
ジャニーが同性愛者であり、事務所に所属する男性タレントに対してセクハラ、および同性愛行為の強要を行っているとの話は、1960年代から散発的に繰り返し報道されていた。
ジャニー喜多川が最初に手がけたタレントはジャニーズ(真家ひろみ、飯野おさみ、あおい輝彦、中谷良)だったが、彼らが所属していた芸能学校(新芸能学院)から離れる際、ジャニー喜多川とオーナー間で引き抜きを巡るトラブルが裁判まで発展。オーナーは、彼らがジャニー喜多川による「ホモセクハラ行為による引き抜き」であることを法廷で明らかにした。それを『女性自身』(1967年9月25日号)が報じている。[1]。この訴訟では、ジャニーズの4人も証言台に立っており、証言記録は『ジャニーズスキャンダル調書』(鹿砦社)で再現されている。
なお、同書では「同性愛」という表現自体を否定しており、ホモセクハラである以上、「性的虐待」、善意に表現しても「少年愛」であるとしている。
元所属タレントの告発も相次いだ。元フォーリーブスの北公次は『光GENJIへ』(データハウス、1988年12月)を、元ジューク ボックスの小谷純とやなせかおるは『さらば!!光GENJIへ』(データハウス、1989年9月)を、元ジャニーズの中谷良は『ジャニーズの逆襲』(データハウス、1989年10月)を、平本淳也は『ジャニーズのすべて―少年愛の館』(鹿砦社、1996年4月)を、豊川誕は『ひとりぼっちの旅立ち』(鹿砦社、1997年3月)を上梓し、セクハラの実態を暴露した。
1988年から1989年にかけては、月刊誌「噂の眞相」もこの問題を数回取り上げた。1999年には、週刊文春がジャニーズ事務所に関する特集記事を掲載し、ジャニーが所属タレントに対してセクハラ 児童虐待を行い、事務所では未成年所属タレントの喫煙などがあると報道した。これに対しジャニー側は、名誉毀損であるとして文春側を訴え、1億円あまりの損害賠償を求める民事訴訟を起こした。
なお、自民党衆議院議員 阪上善秀(現 宝塚市長)が2000年4月13日にこの問題を衆議院で取り上げている[2]。
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性骚扰事件
Johnny是同性恋者、对事务所所属的男性艺人性骚扰甚至是强制要求同性爱之类的话题,60年代被反复广泛的报道。
爷爷最初培养的艺人是Johnnys(真家ひろみ、飯野おさみ、あおい輝彦、中谷良),在他们将要离开所属的艺能学校(新艺能学院)的时候,爷爷和owner之间纠纷发展到了对峙法庭的地步。Owner在法庭上揭露出爷爷对他们有“同性性骚扰行为”。这被《女性自身》(1967年9月25日号)报道出来。这次的诉讼连Johnnys的四个人都站上了证言台,证言记录再现于《Johnnys绯闻记录》(鹿砦社)一书中。
而书中否定了所谓的“同性爱”,而除了同性性骚扰甚至还有“性虐待”,善意的被说为是“少年爱”。
原所属艺人的告发也相继发生了,原フォーリーブス的成员北公次的《给光源氏》(Data House 1988年12月),原ジューク ボックス的成员小谷純的《再见!给光源氏》(Data House 1989年9月),原Johnnys的成员中谷良的《Johnnys的袭击》(Data House、1989年10月),平本淳也的《Johnnys的全部——少年爱之馆》(鹿砦社、1996年4月),豊川誕的《一个人的路途》(鹿砦社、1997年3月)等相继出版,揭露了性骚扰的真相。
从1988年到1989年,月刊志《绯闻的真相》也数次提到了这个问题。1999年,周刊文春登载了Johnnys事务所相关的特集记事,报道了爷爷对旗下艺人的性骚扰、虐待儿童行为和事务所中未成年艺人有吸烟行为等。爷爷一方以名誉损毁之名将文春一方告上了法庭,要求其赔款一亿多日元。
再就是,自民党众议院议员阪上善秀(现宝冢市长)于2000年4月13日在众议院提出了这个问题。
[編集]
裁判
2002年3月27日の一審判決ではジャニー側が勝訴し、東京地裁は文春側に880万円の損害賠償を命じた(井上哲男裁判長)。文春側はこれを不服として東京高裁に控訴した。
2003年7月15日の二審判決では、ジャニー側のセクハラ行為を認定した(矢崎秀一裁判長)。このためセクハラ部分の勝訴は取り消され、損害賠償額は120万円に減額された。ジャニー側は損害賠償額を不服として最高裁に上告したが、2004年2月24日に棄却され(藤田宙靖裁判長)、120万円の損害賠償とセクハラ行為認定が確定した。
オカルト批判団体 ジャパン スケプティクスの機関誌『NEWSLETTER 53号』では、当時同会の副会長だった草野直樹がこの問題に言及。芸能マスコミが、判決について一審の880万円から120万円に減額された事実だけをベタ記事で書いて済ませ、「ホモセクハラが認められた」という理由を書かなかったことを批判。「マスコミの誤りというのは、『間違ったことを報じる』だけでなく、『必要なことを報じない』ことも含まれる。そして後者の多くは、いくつかの『タブー』に縛られていることが原因になっている」とし、報道におけるタブーのベールを抜いた報道は、オカルト 疑似科学の類と同様に騙されないようにしよう、と訴えて話題になった。(鹿砦社『ジャニーズスキャンダル調書』より)
また、ニューヨーク タイムズ、オブザーバーなどの海外メディアでも大々的に取り上げられ、この問題をタブー視するなどして報道しない日本のマスメディアの姿勢を批判した。
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裁判
2002年3月27日的一审判决是爷爷一方获胜,东京地裁命令文春一方赔偿880万日元(井上哲男裁判長)。文春一方不服结果上诉到东京高裁。
2003年7月15日的二审判决认定了爷爷一方的性骚扰行为(矢崎秀一裁判長)。因为这个取消了性骚扰部分的胜诉,损害赔偿额减少120万日元。爷爷一方对损害赔偿额不服而上诉到最高裁,于2004年2月24日被驳回(藤田宙靖裁判長)。120万日元的损害赔偿和性骚扰行为的认定被确定了。
Occult批判团体Japan Skeptics的机关志《NEWSLETTER 53号》中,当时同会的副会长草野直樹说起了这个问题。批判了艺能媒体只报道了由一审的880万日元到最后减额120万日元的事实,并没有说明“同性性骚扰被认定”的理由。“媒体的误区不仅仅是在于‘报道了错误的内容’还包含了‘没报道应要报道的事情’。而后者是居多的,原因是被不少的‘禁忌’给束缚住了。”对于这种被报道相关禁忌遮蔽住了的报道,就像Occult、疑似科学一样希望大家必要被骗,像这样的说法成为了话题。
还有,纽约时报、Observer等海外媒体也对这个进行了报道,对回日本媒体回避禁忌报道的姿势进行了批判。
以上~爷爷果然是世界的爷爷~~
是一休给的喜爷爷的资料~估计是wiki搜到的~所以翻译一下大家来分享~~
前面一段爷爷资料是已经有翻译的,所以整理了一小下~
后面的X骚扰事件是自翻的所以如果有错还请原谅~m(_ _)m
话说pv看得我鼻血横流口水那叫一把一把的擦啊!!!
lips果然很强大啊!!!!!!!妖化版齐天大圣和白骨精的天堂啊!!!><
过几日要失踪~勿念~
喜爷爷档案如下~(校花+校花夫人和喜爷爷啊~)

ジャニー喜多川 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジャニー喜多川(ジャニーきたがわ、Johnny H. Kitagawa、本名: 喜多川 擴(きたがわ ひろむ)、1931年10月23日 - )は、日本の実業家 芸能プロモーターで、ジャニーズ事務所、ジャニーズ出版、ヤングコミュニケーションの社長である。
ロサンゼルス生まれで日系二世。日本に帰化後は一時、和歌山県和歌山市に在住していた。
来歴 人物
1931年10月23日、真宗大谷派東本願寺ロサンゼルス別院の僧侶 喜多川諦道(1946年から1949年まで、プロ野球チーム「金星スターズ(元 金星ゴールドスター)」のマネージャーだった人物) の長男として、アメリカ ロサンゼルスに生まれる。母親は幼少時にアメリカで死別している。ちなみに子供の頃のあだ名は「ヒー坊」だった。
太平洋戦争開戦後、日系人の強制収容により父、姉 メリー喜多川(当時の本名: 喜多川泰子)、弟と共に、カリフォルニア州内に抑留されるが、1942年6月18日の第一次日米交換船で帰国した。
終戦まで日本で過ごし、両親の出身地 和歌山県和歌山市に在住していた。しかし、1945年7月9日の和歌山大空襲で焼け出される。戦後は姉とともに再渡米、ロサンゼルスの高校を卒業。
そして1952年、陸軍犯罪捜査局(CID)の情報員として、ロサンゼルス市立大学を卒業した姉と共に日本に再帰国する。米軍関係の仕事の一環として、当時勃発していた朝鮮戦争による戦災孤児に英語を教える為に、日本で僅か10ヶ月で朝鮮語をマスターし、すぐ韓国の板門店に出向き、1年2ヶ月間に渡って子供達に英語を教えた。日本への帰国後は、アメリカ大使館で軍事顧問団に勤務。
その後、上智大学国際部に進学し、卒業。大学在学中の1955年にバンドを結成し、芸能界へ参入。
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Johnny喜多川(本名:喜多川 擴,1931年10月23日)是日本实业家,艺能推广家,Johnny事务所、Johnny出版社、Young Communication的社长。
在洛杉矶出生的第二代日裔。回日本后曾经在和歌山县的和歌山市(hyde故乡)住过一段时间。
1931年10月23日,作为真宗大谷派东本愿寺洛杉矶别院的僧侣 喜多川谛道(1946年到1949年曾担任过专业棒球队「金星Stars(原 金星Gold Star)」的经理)的长子,在美国洛杉矶出生。小时候在美期间母亲去世。小時候曾经有过爱称:「ヒー坊」。
太平洋战争爆发后,作为日裔被强制收容的喜多川一家(爹、姐姐Mary喜多川「本名:喜多川泰子,景子阿姨他娘」还有弟弟),在加州境内滞留,与1942年6月18日乘坐第一次日美交换船回到日本。
战争结束前一直在日本度过,住在父母的出身地和歌山縣和歌山市(爷爷原来也是关西人)。但是,因为1945年7月9日的和歌山大空袭房子被烧毁。战后和姐姐一起再度赴美,在洛杉矶高中毕业。
然后,1952年,作为陆军犯罪调查局(CID)的情报员,和在日本洛杉矶市立大学毕业的姐姐一起再度回到日本。作为美军相关工作的一环,朝鲜战争爆发后为了教授战灾遗孤英语,他在日本仅用了10个月的时间掌握了朝鲜语后立刻至韩国的板门店赴任,在韩国教孤儿学英语历时1年两个月。归国后,在美驻日大使馆担任军事顾问。(这时候,爷爷年仅21岁。)
之后,在上智大学国际部(Merry社长也是这里毕业的)继续进学,毕业。大学期间于1955年组了乐队,加入了艺能界。
之后的事情基本上人尽皆知了,我就不罗嗦了。
爷爷果然是世界的爷爷。从他的经历看,他完完全全经历了那场战争。
并且和普通日本民众不同,是亲身经历,并且还深入过军队。
也许爷爷现在对大陆和台湾的态度和这个有关。
不仅经历了战争,爷爷还是海龟,这经历丰富而复杂的阿。
既然在洛杉矶混了那么久,有些特别的嗜好大概也可以解释了吧。
还有对拉斯韦加斯和夏威夷的钟爱。
爷爷在米国日系社会应该也是人脉很广。
可以从他早年经历分析一下这人性格的形成hoho
后面附上J家成立的典故和爷爷著名的骚扰案始末。
ジャニーズ事務所の設立
1960年代初頭、ジャニー喜多川は自分の住んでいた東京の在日米軍宿舎「ワシントンハイツ」(現在は代々木公園)にて、近所の少年たち約30名を集めた少年野球チームのコーチをしていた。そのチーム名は、喜多川擴のアメリカ国籍での名前「ジャニー」からとって「ジャニーズ少年野球団」と名付けられた。このチームのメンバーには、浜田光夫、小畑やすし、設楽幸嗣らも居り、応援団には松島トモ子までもが居た。しかもプロ球団や力道山などに支援されていて、練習場も後に池袋の立教大学のグラウンドへと移行した。ある日、このチームのメンバーの中から代々木中学校に通う4名を選び、映画館に連れて行く。そして、そこで観た『ウェストサイドストーリー』に一同感動し、エンターテインメント事業を興そうと決意する。そしてこの4名の少年で、最初のグループであるジャニーズを1962年4月に結成。最初は池袋西口にある芸能プロダクション「新芸能学院(現:名和プロダクション)」に籍を置いていたが、1962年6月にジャニーズ事務所を創業。1975年1月になって正式に株式会社として法人登記される。
姉のメリー喜多川は、1950年代から四谷三丁目の円通寺坂入口右手の角にあった「スポット」という名のカウンターバーを経営しており、バーの客だった東京新聞記者(後に作家)の藤島泰輔と結婚した。ジャニーがジャニーズ事務所を興すとバーを閉店し、事務所の経理を担当するようになった。
事務所の黎明期には、フォーリーブス たのきんトリオ シブがき隊 少年隊 光GENJIなどで正統派男性アイドルの礎を築き、また正統派だけでは通用しなくなると、SMAP以降の男性アイドルの活躍の場をバラエティの分野にも拡げた。
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Johnnys事务所的设立
60年代初,Johnny喜多川住在东京在日美军宿舍(Washington Heights 现在的代々木公園),召集了附近的约30名少年组成了一个野球队爷爷做教练。这野球队的名字是由爷爷美籍的名字Johnny而来的“Johnnys少年野球团”。这野球队的队员中浜田光夫、小畑やすし、設楽幸嗣他们也在,应援团中还有松島トモ子。而且还受职业球队和力道山等的支援,练习场也在日后转移到了池袋立教大学的运动场。有一天,爷爷在队中挑了在代々木中学读书的4个带去了电影院,在那儿看了《West Side story》一同感动后决意开始娱乐事业。这4名少年作为最初的Johnnys团体在1962年4月结成。最初属于池袋西口的某艺能经纪公司(新艺能学院,现名:和production),1962年6月Johnnys事务所创业,1975年1月正式作为株式会社成为法人。
姐姐Mary喜多川从50年代开始,经营着在四谷三丁目的円通寺坡道入口右边角上名为「スポット」的Counter bar,和曾经是酒吧的客人的东京新闻记者(后来成为作家)的藤島泰輔结婚了。在爷爷开办Johnnys事务所后关了酒吧,成为了事务所的经理。
事务所的初期,以フォーリーブス、たのきんトリオ、シブがき隊、少年隊、光GENJI等正统派男性Idiol为基础,之后仅只有正统派通用不了之后,也开始出现SMAP之后的涉野广泛的男性Idiol。
セクハラについて
ジャニーが同性愛者であり、事務所に所属する男性タレントに対してセクハラ、および同性愛行為の強要を行っているとの話は、1960年代から散発的に繰り返し報道されていた。
ジャニー喜多川が最初に手がけたタレントはジャニーズ(真家ひろみ、飯野おさみ、あおい輝彦、中谷良)だったが、彼らが所属していた芸能学校(新芸能学院)から離れる際、ジャニー喜多川とオーナー間で引き抜きを巡るトラブルが裁判まで発展。オーナーは、彼らがジャニー喜多川による「ホモセクハラ行為による引き抜き」であることを法廷で明らかにした。それを『女性自身』(1967年9月25日号)が報じている。[1]。この訴訟では、ジャニーズの4人も証言台に立っており、証言記録は『ジャニーズスキャンダル調書』(鹿砦社)で再現されている。
なお、同書では「同性愛」という表現自体を否定しており、ホモセクハラである以上、「性的虐待」、善意に表現しても「少年愛」であるとしている。
元所属タレントの告発も相次いだ。元フォーリーブスの北公次は『光GENJIへ』(データハウス、1988年12月)を、元ジューク ボックスの小谷純とやなせかおるは『さらば!!光GENJIへ』(データハウス、1989年9月)を、元ジャニーズの中谷良は『ジャニーズの逆襲』(データハウス、1989年10月)を、平本淳也は『ジャニーズのすべて―少年愛の館』(鹿砦社、1996年4月)を、豊川誕は『ひとりぼっちの旅立ち』(鹿砦社、1997年3月)を上梓し、セクハラの実態を暴露した。
1988年から1989年にかけては、月刊誌「噂の眞相」もこの問題を数回取り上げた。1999年には、週刊文春がジャニーズ事務所に関する特集記事を掲載し、ジャニーが所属タレントに対してセクハラ 児童虐待を行い、事務所では未成年所属タレントの喫煙などがあると報道した。これに対しジャニー側は、名誉毀損であるとして文春側を訴え、1億円あまりの損害賠償を求める民事訴訟を起こした。
なお、自民党衆議院議員 阪上善秀(現 宝塚市長)が2000年4月13日にこの問題を衆議院で取り上げている[2]。
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性骚扰事件
Johnny是同性恋者、对事务所所属的男性艺人性骚扰甚至是强制要求同性爱之类的话题,60年代被反复广泛的报道。
爷爷最初培养的艺人是Johnnys(真家ひろみ、飯野おさみ、あおい輝彦、中谷良),在他们将要离开所属的艺能学校(新艺能学院)的时候,爷爷和owner之间纠纷发展到了对峙法庭的地步。Owner在法庭上揭露出爷爷对他们有“同性性骚扰行为”。这被《女性自身》(1967年9月25日号)报道出来。这次的诉讼连Johnnys的四个人都站上了证言台,证言记录再现于《Johnnys绯闻记录》(鹿砦社)一书中。
而书中否定了所谓的“同性爱”,而除了同性性骚扰甚至还有“性虐待”,善意的被说为是“少年爱”。
原所属艺人的告发也相继发生了,原フォーリーブス的成员北公次的《给光源氏》(Data House 1988年12月),原ジューク ボックス的成员小谷純的《再见!给光源氏》(Data House 1989年9月),原Johnnys的成员中谷良的《Johnnys的袭击》(Data House、1989年10月),平本淳也的《Johnnys的全部——少年爱之馆》(鹿砦社、1996年4月),豊川誕的《一个人的路途》(鹿砦社、1997年3月)等相继出版,揭露了性骚扰的真相。
从1988年到1989年,月刊志《绯闻的真相》也数次提到了这个问题。1999年,周刊文春登载了Johnnys事务所相关的特集记事,报道了爷爷对旗下艺人的性骚扰、虐待儿童行为和事务所中未成年艺人有吸烟行为等。爷爷一方以名誉损毁之名将文春一方告上了法庭,要求其赔款一亿多日元。
再就是,自民党众议院议员阪上善秀(现宝冢市长)于2000年4月13日在众议院提出了这个问题。
[編集]
裁判
2002年3月27日の一審判決ではジャニー側が勝訴し、東京地裁は文春側に880万円の損害賠償を命じた(井上哲男裁判長)。文春側はこれを不服として東京高裁に控訴した。
2003年7月15日の二審判決では、ジャニー側のセクハラ行為を認定した(矢崎秀一裁判長)。このためセクハラ部分の勝訴は取り消され、損害賠償額は120万円に減額された。ジャニー側は損害賠償額を不服として最高裁に上告したが、2004年2月24日に棄却され(藤田宙靖裁判長)、120万円の損害賠償とセクハラ行為認定が確定した。
オカルト批判団体 ジャパン スケプティクスの機関誌『NEWSLETTER 53号』では、当時同会の副会長だった草野直樹がこの問題に言及。芸能マスコミが、判決について一審の880万円から120万円に減額された事実だけをベタ記事で書いて済ませ、「ホモセクハラが認められた」という理由を書かなかったことを批判。「マスコミの誤りというのは、『間違ったことを報じる』だけでなく、『必要なことを報じない』ことも含まれる。そして後者の多くは、いくつかの『タブー』に縛られていることが原因になっている」とし、報道におけるタブーのベールを抜いた報道は、オカルト 疑似科学の類と同様に騙されないようにしよう、と訴えて話題になった。(鹿砦社『ジャニーズスキャンダル調書』より)
また、ニューヨーク タイムズ、オブザーバーなどの海外メディアでも大々的に取り上げられ、この問題をタブー視するなどして報道しない日本のマスメディアの姿勢を批判した。
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裁判
2002年3月27日的一审判决是爷爷一方获胜,东京地裁命令文春一方赔偿880万日元(井上哲男裁判長)。文春一方不服结果上诉到东京高裁。
2003年7月15日的二审判决认定了爷爷一方的性骚扰行为(矢崎秀一裁判長)。因为这个取消了性骚扰部分的胜诉,损害赔偿额减少120万日元。爷爷一方对损害赔偿额不服而上诉到最高裁,于2004年2月24日被驳回(藤田宙靖裁判長)。120万日元的损害赔偿和性骚扰行为的认定被确定了。
Occult批判团体Japan Skeptics的机关志《NEWSLETTER 53号》中,当时同会的副会长草野直樹说起了这个问题。批判了艺能媒体只报道了由一审的880万日元到最后减额120万日元的事实,并没有说明“同性性骚扰被认定”的理由。“媒体的误区不仅仅是在于‘报道了错误的内容’还包含了‘没报道应要报道的事情’。而后者是居多的,原因是被不少的‘禁忌’给束缚住了。”对于这种被报道相关禁忌遮蔽住了的报道,就像Occult、疑似科学一样希望大家必要被骗,像这样的说法成为了话题。
还有,纽约时报、Observer等海外媒体也对这个进行了报道,对回日本媒体回避禁忌报道的姿势进行了批判。
以上~爷爷果然是世界的爷爷~~
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